幸せを描いた画家ルノワール
- 2010.02.18 Thursday
- 19:34
【ルノワール シャルパンティエ夫人と子どもたち1878年】
先日、六本木の「ルノワールー伝統と革新展」に行ってきました。
久しぶりの美術展です。
『ルノワール−伝統と革新』展2010年
(この記事の画像は展覧会の絵ではありません。)ルノワールは誰でも知っている印象派の画家ですね。
それ故に庶民的できれいなだけと誤解されてしまいがちです。
(私だけかな)
内外の美術館から集めた秀作85点、見応えがありました。
そして、ルノワールを改めて見直しました。
画集の印刷ではわからない肌の美しさ、色彩の柔らかさ、衣装のすみずみまで気を配った構成、100年以上も前の絵とは思えないみずみずしさでした。
絵は知っていても、ルノワールの生涯には興味がありませんでした。
彼はどんな一生を歩んだのでしょうか。
ピエール=オーギュスト・ルノワール (1841年2月25日 - 1919年12月3日)はフランスの印象派の画家です。
リモージュで7人兄弟の6番目として生まれました。
父は仕立屋、母はお針子で、貧乏人の子だくさんの家庭でした。
3歳の時、一家でパリに移住しました。
13歳から陶器の絵付け職人となりましたが、産業革命のため、印刷で大量生産するようになり、17歳で失業しました。
職を失ったルノアールは、扇や日除けの絵を描きながら画家を目指すことにしました。
21歳でエコール・デ・ボザール(官立美術学校)に入学。同時期にシャルル・グレールの画塾に入り、本格的に絵画を学び始めました。
そこでモネ、シスレー、バジールらと出会いました。
画塾で制作中のルノワールに師のグレールが「君は自分の楽しみのために絵を描いているようだね」と言ったところ、ルノワールが「楽しくなかったら絵なんか描きませんよ」と答えたというエピソードは著名です。
1864年にサロンで初入選するも、以後入選と落選を繰り返し、生活に困窮しました。
友人のバジールは自分のアトリエに同居させてくれました。
1870年、普仏戦争に召集されましたが、赤痢にかかり、翌年3月に除隊しました。しかし、友人のバジールは、普仏戦争に自ら志願し、29歳の若さで戦死してしまいました。
【バジール画 ルノワール 1867年】
【桟敷1874年】
戦地から戻ったルノワールは、モネ、ピサロ、シスレーら、後に「印象派」と呼ばれるグループを結成し、「第1回印象派展」を開きました。
ルノワールは「桟敷」など7点を出品しました。
【陽光を浴びる裸婦】
しかし、ルノワールは次々に実験的な作品に挑戦し、中には『陽光を浴びる裸婦』のように、裸婦の身体に当たる木漏れ日や影を青や紫の色点で表現した技法が理解されず、「腐った肉のようだ」と酷評されたこともありました。
【ムーラン・ド・ラ・ギャレット1876年】
ルノワールの友人を総動員して描いた作品です。
モデル代として当時最新の帽子を全員にあげたそうです。
その後はサロンにも出展し、評判が高くなり、たくさんの文化人と知り合うようになりました。
【舟遊びの人々の昼食 1881年】
1881年には大作『舟遊びの人々の昼食』を完成。この作品の左端の帽子をかぶり犬を抱く女性は後にルノワール夫人となるアリーヌ・シャリゴです。
ルノワールと正式に結婚するのは1890年のことでした。
可愛い息子たちに恵まれ、ルノワールは家庭こそが人間の幸福の原点であると実感しました。
兄のピエールは俳優に、弟のジャンは映画監督になりました。
晩年はリウマチに罹り、車いすになりましたが、それでも絵を描き続けました。
最後には手指も動かなくなり、絵筆を手に縛り付けて描きました。
亡くなる当日まで制作を続けたということです。
その作品は4,000点にもなるといいます。
【自画像 1910年 69歳ころ】
「芸術が愛らしいものであってなぜいけないんだ?世の中は不愉快なことだらけじゃないか」
ルノワール
ルノワールは前世でも画家だったと思います。
そして絵で人々を癒すために生まれてきたのでしょう。
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