吉野ヶ里遺跡を見学しました。
- 2018.10.06 Saturday
- 20:06
【博多の初ランチはお魚定食、地元のお魚のてんぷらが美味しかったです〜】
ツアーより1日早く福岡入りして、博多のホテルに泊まりました。
【博多を散歩中に波動の良い神社を見つけました。】
【近づいたら、水鏡神社と書いてありました。】
ここは、菅原道真が太宰府に流される途中で立ち寄った場所だそうです。
博多の中心部なので、ここの神様大事にされてるなと感じました。
吉野ヶ里歴史公園へ
翌朝、電車で1時間ほどで吉野ヶ里公園駅に着きました。
駅前は閑散としていて、小学生たちが広場でお絵かきしていました。
畑の中を15分ほど歩くと、吉野ヶ里歴史公園が見えてきました。
広い〜、とても広いです。
道路から入り口まで、また10分ほどかかりました。
【正面入り口に立つ息子】
中は無料の循環バスが回っています。
乗客は私と息子だけでした。
運転手さんに見所を教えてもらい、復元建物が多いところで降りました。
ときどき、小学生たちや中高年の夫婦連れがいるくらいで、ほとんど人がいませんでした。
これらは弥生時代の遺跡群です。
弥生時代とは、紀元前5世紀頃から紀元3世紀頃までの稲作が根付いた時代といわれています。
約700年間。
弥生時代は、身分の高い人と庶民の差が大きかったようです。
【庶民と、身分の高い人の服装、残っていた布切れからの復元、この差が悲しいです〜】
2,000年前の日本はこんな風景だったのですね〜
集落の周りに溝を掘って、太い木の柱で囲ってあります。
外敵や獣から守るためだったようです。
あまりにもがっちりと、堀や,防護柵が巡らしてあるので、なんだか憂鬱になりました。
【右が物見櫓からみた王の宮殿(主祭殿)】
【宮殿内部、王の間、こんなふうに臣下が並んでいたのでしょう。】
【王の間の上、最上階に、ヒミコのような巫女の部屋がありました。】
ここで、お告げを聞いて王に伝えたようです。
そうだとすると、王より権限が強かったのかも。
こんなに、おとなしそうな巫女だったらつとまりそうもないですね。
息子は、「細木数子みたいな巫女じゃないの〜」と言っていました。
超納得です。
解説板に、ここにヒミコがいたかもしれない〜と思わせるような文章があちこちにありました。
言いたいけど言えない、もどかしさを感じました。(^∇^)
【頑丈な防護柵の前で、ヒガンバナがキレイでした。】
【お墓の現物が保存されている建物】
墳丘墓という歴代の王族の墓がそのまま保存されていました。
当時は、甕棺(かめかん)という素焼きの大きな甕を二つくっつけて繭のようにして埋葬していました。
中には、首のない死体(骨だけ)やお腹に10本も矢が刺さったままの死体もあります。
近隣の部族との抗争でやられたらしいです。
武器や武具も結構残っていて、しょっちゅう戦いがあったみたいです。
台湾の九族文化村のことを思い出しました。
あそこでも、部族が年中、抗争していて、負けると首を切られていました。
(首の山の写真が残っています。)
戦前、日本軍が止めさせるまで続いていた風習でした。
見ていたら、だんだん気が重くなってきました。
庶民は王に搾り取られて苦しかっただろうな〜
息子がチャネリングしているシャチのスイミーちゃんは、
「今とそんなに変わらないですよ〜」とのこと。
税金を搾り取られている現代の私たちと同じです。
最後に、入り口のレストランでチャンポン麺をいただき、ほっと一息つきました。
私は、縄文時代の方が明るく自由なイメージで好きです。
近年、全国の遺跡の発掘が進んで、日本の歴史はどんどん書き換えられています。
この吉野ヶ里遺跡の解釈も変わって来るかもしれませんね。
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