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神仏習合から神仏分離までの流れ

神仏習合

【今でも行われている神仏習合、石清水八幡宮での行事】

 

あまり聞き慣れない言葉ですが、神仏習合から神仏分離までは、日本の宗教史で大きな出来事だったのです。

 

しばやんさんのブログで、詳しく考察されていたので、ウィキペディアとともに参考にさせていただきました。


しばやんさんのブログ:

仏教伝来から神仏習合に至り、明治維新で神仏分離が行われた経緯を考える

日本には古来、神道(しんとう)別名
惟神(かんながら)の道がありました。


神道(しんとう)は、日本の宗教。


教典や具体的な教えはなく、開祖もおらず、神話、八百万の神、自然や自然現象などにもとづく多神教。自然と神とは一体として認識され、神と人間を結ぶ具体的作法が祭祀であり、その祭祀を行う場所が神社であり、聖域とされた。
 ウィキペディア


それに反して、仏教は大陸から伝わり、国教として朝廷の保護を受けて発展してきました。


・仏教伝来の時期は? 


6世紀半ばの欽明天皇期に百済から大和朝廷へ伝わったといわれていました。
それ以前から、渡来人が私的に仏教を信仰して伝えていたようです。


大和朝廷の豪族の中には原始神道の神事に携わっていた氏族も多く、物部氏・中臣氏などはその代表的な存在であり、新たに伝来した仏教の受容には否定的であったといわれています。


・朝廷の仏教優遇策 


鰐口

【鰐口(わにぐち)仏堂の正面軒先に吊り下げられた仏具の一種】


平安時代になると、朝廷はますます仏教を重んじるようになりました。


神社で経典を読むことを命じる勅書が何度も下されました。


「勅す、神道を護持するは、一乗の力に如かず、禍を転じ福を作(な)す。また修繕の功に憑る。宜しく五畿七道に僧、各一口を遣し、毎国内の名神社に、法華経一部を読ましむべし。…」西暦836年


神仏習合

【神社の境内の奥に五重塔がある例】

 

そのため、神社でも仏像仏具を備えるようになったのです。
神社のご神体に仏像を置く神社も現れるようになり、建物も寺院のような極彩色の伽藍や五重塔を建築する神社も増えていきました。


八幡、山王、愛宕、祇園、多賀、北野天満宮などの各神社は、神前に鈴はなく、鰐口(わにぐち)に鐘の緒の下げであったのになりました。

 

「社頭の構造も伽藍風となり、堂作りの社殿に極彩色を施し、丹塗りの楼門や、二重、三重、五重の塔のある神社もあって、純然たる仏閣の如くであったのが事実である。


神社の実権は、全く僧徒の占領に帰し、神主はその下風に立て、雑役に従事するのみ、何等の権力もなかったから、神人は憤慨に堪えられず、僧徒に対して怨恨を懐き、宿志を晴らさんとすれども、実力なければ空しく涙を呑み、窃(せつ)に時機の来らんことを、待っておった。」


「しかるに僧徒が勢威に任せて、漸次に神道の色彩を奪い、本地堂に仏像を安置しながら神体を仏像にし、社殿を仏堂に模造し、神殿に仏像の扁額を掲げ、鈴に代わるに鰐口を以てし、而して僧徒が法衣して神殿に読経してこれを神祭というに至っては、実に神仏混交、社寺混同して、本迹二門の真意も、却って破滅するに至ったのである」

 


・仏教僧侶の堕落 


僧侶の堕落

 

江戸幕府は仏教を優遇してきたが、そのことが多くの僧侶の堕落を招きました。
その証拠にかなり以前から仏教を厳しく批判する書物が多数出ています。


「江戸時代ほど僧侶攻撃論の栄えた時代はなく、まず儒家により、更に国学者により、存分の酷評が下されている。
『堂宇の多さと、出家の多きを見れば、仏法出来てより以来、今の此方のようなるはなし。仏法を以て見れば、破滅の時は来たれり。出家も少し心あるものは、今の僧は盗賊なりと言えり。』(大学或問*) 菊池寛


荻生徂徠はその浪費振りと搾取のさまを指弾している。
『今時、諸宗一同、袈裟衣、衣服のおごり甚(はなはだ)し。これによりて物入り多きゆえ、自然と金銀集むること巧みにして非法甚し。戒名のつけよう殊にみだりにて、上下の階級出来し、世間の費え多し。その他諸宗の規則も今は乱れ、多くは我が宗になき他宗のことをなし、錢取りのため執行ふたたび多し』(政談)


仏教を批判したのは思想家だけではありません。
会津藩の保科正之、水戸藩の徳川光圀及び徳川斉昭など名君と呼ばれた藩主も盛んに仏教を排撃したのです。


・神仏分離令 


仏教を擁護してきた江戸幕府が倒れると、明治新政府はかなり早い段階から仏教を叩こうと動きました。


明治政府は慶応四年(明治元年)三月十三日に神祇官再興を布告し、次いで三月十七日には神祇事務局より神社における僧職の復飾(俗人に戻ること)を命じ、さらに三月二十八日には『神仏分離令』を出しています。


これによると、「権現」とか「牛頭天王」など、神号を仏号で称えている神社はその由来書を提出すること、また仏像をもってご神体としている神社は今後改めること、さらに本地仏ととして仏像を神社に置いたり、鰐口や梵鐘、仏具などを社前に置いている場合は早々に取り除けと命じています。


・廃仏毀釈 


廃仏毀釈

【仏具や経典を焼き捨てているところ】


そしてこの『神仏分離令』が出た4日後の四月一日に日吉天王社に武装神官が進入し、仏具や教典などを焼き捨てています。


当時は、全国の大半の神社でご神体が仏像にされていて、境内には仏教的なものが数多く存在しました。
それらを「早々に取り除け」というのは、建物ならば、破壊するか、移転するか、社殿として使うしかなかったのでしょう。


仏像や仏具などは多くが焼かれたり、溶かされたり、棄てられることになりました。


他藩に先んじて幕末に廃仏毀釈を実施した薩摩藩では、梵鐘などを溶かして大量の「薩摩天保」と呼ばれる贋金を密鋳して軍資金を捻出しました。


「寺院廃毀の後、神社の神仏混淆してあるのを分離することが至極面倒であった。
各地巡回して、神社ごとに検査の上仏像仏具を取りよけたが、全く仏像を神体にしたるものがあった。
これらは新たに、神鏡を作って取り替えたが、霧島神社をはじめ、鹿児島神社なども仏像で、即ち千手観音であった。
三個国大小、四千余の神社を一々検査したのに、大隅国、々分郷のなげきの森という古歌にも見ゆるその神社の神体が古鏡であった。
神仏混合でなかったのは、ただこの一社だけであった。」


薩摩藩でこんな状態であったので、どこの藩でも大量の梵鐘や鰐口が集まることとなりました。
仏具のほとんどは鉄や銅などの金属だったのですね。


「京都四条の鉄橋の材料は、仏具類が破壊せられて用いられたとのことである。

鉄橋は明治六年に起工し、翌年三月に竣工し、同十六日に開通式が行われた。
総費額一万六千八百三十円で、祇園の遊郭で負担したとのことであるが、時の知事長谷信篤は、府下の諸寺院に命じ、仏具類の銅製の物を寄付せしめた。
古い由緒のある名器の熔炉に投ぜられたるものが少なくなかったということである。
当時廃仏毀釈の余勢が、なお盛んであったことがわかる。」

 

古い寺や神社の多い京都においても、明治初期に多くの文化財が失われました。

 

・まとめ   


千年間続いた神仏習合が終わり、明治から廃仏毀釈の嵐が日本中に吹き荒れました。
それにより、貴重な文化財の多くが壊され焼かれ、溶かされ、外国に売られました。


日本史の授業で廃仏毀釈のことを知った時は、なんとひどいことが起きたのだろうと思いましたが、千年の歴史の中での時代の流れだったのです。


日本人である私たちは、このようなことにあまりに無関心でありすぎたと思います。


山伏の話から脱線したようですが、この廃仏毀釈は山伏とも深い関係があるのです。


つづく

 

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2018.07.21 Saturday 09:49 | comments(0) | - | 
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