信濃の歩き巫女
- 2019.11.13 Wednesday
- 09:08
【 洛中洛外図屏風 に描かれた歩き巫女】
こんにちは〜歴史大好きなHAPPYリマです。
ヽ(´∀`)ノ
以前、神社ツアーで歩き巫女らしきの前世の方がいらっしゃいました。
ご本人は全く記憶がないそうです。
普通はそうですよね〜(^ ^)
歩き巫女とは、一体どんな巫女だったのでしょうか?
興味が湧いて調べてみました。
・歩き巫女 ウィキペディア
【上の絵図をきれいに書き直した画像。ネットから】
歩き巫女(あるきみこ)は、かつて日本に多く存在した巫女の一形態である。
特定の神社に所属せず、全国各地を遍歴し祈祷・託宣・勧進などを行うことによって生計を立てていた。
旅芸人や遊女を兼ねていた歩き巫女も存在した。
現在の長野県東御市から出て、日本各地を歩いた歩き巫女。
戦国時代、望月千代女が武田氏のために、この巫女を訓練し、いわゆるくの一として使ったとされる。
柳田國男によれば、もともとノノウと呼ばれる諏訪神社の巫女で、諏訪信仰の伝道師として各地を歩いていたらしい。
ウィキペディアより
・歩き巫女研究家、石川好一さんの記事
歩き巫女は、全国を旅しながら、祈祷・託宣・勧進などを行っていました。
いつ頃から発生したのかは不明ですが、江戸時代の資料を調べた歩き巫女研究家、石川好一さんのインタビュー記事がわかりやすくて興味深かったです。
記事の終わりにリンクがあります。
石川好一さんは、2017年現在86歳、
教師生活40年の定年後、東御市の図書館長、市会議員を歴任した。
現在は、東御市在住の歴史研究家、同市の歩き巫女の村、祢津(ねつ)の研究家。
・まとめ
【神事舞太夫の子孫の人と石川好一さん】
それらをまとめると、
・長野県、東御市(とうみし)の祢津 (ねつ) に 「ののう」 と呼ばれた歩き巫女の村があった。
・地元では 「ののう」 と呼ばれていたが、他国では 「信濃の歩き巫女」 と呼ばれていた。
・4月に祢津を出発し、11月には 「えびす講」 のために帰る。
・「ののう」 は田畑を持っておらず、各地を歩いて口寄せなどを行ってお礼を貰い、えびす講で米・味噌・その他を買うために11月には帰る。
・口寄せには3種類あり、
「神口」 神々の託宣を主とする。
「死口」 亡くなった人の霊を呼び戻す。
「生口」 生き別れた人の霊を呼び戻す。
・歩き巫女の第一条件は、美人であること。
歩き巫女には旅先で見つけた可愛い女の子をスカウトする。
両親の承諾を得て、村役人の証文を書いてもらうので誘拐ではない。
・巫女の修業は厳しくて、肉食はダメ、冬でも水にはいるなどした。
いろいろな修業で神がかりになる必要があるが、出来ない子もいた。
そのため、自殺した少女もいたらしい。
・神事舞太夫(しんじまゆうだゆう)という男性のリーダーがいた。
巫女たちの指導監督、荷物を運んだり、宿の手配、お金のやり取りなどをしていた。
神事舞太夫は役職名で、幕府の寺社奉行配下だったので、関所も自由に通れた。
情報収集をしていたかもしれない。
・神事舞太夫は修験道の呪術を会得していたので、歩き巫女たちもその技を使っていたらしい。
・歩き巫女は貧しい村人が見たこともないほど、裕福できれいな着物を着ていた。
そのため村から浮いていた。
・大河ドラマ「天地人」に出てくる戦国時代の歩き巫女、望月千代女が彼女たちを訓練してくノ一として使っていた。
望月千代女は武田の女忍者だった。
などなど、とても興味をそそられますね。
TVドラマにしたらすごく面白そうです。
「信濃の歩き巫女 祢津の里ノノウの実像」石川好一 グリーン美術出版
時代に生きた人々の悩みを救った祢津の歩き巫女 〜歩き巫女研究家「石川好一」
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