『長崎の鐘』原爆の日に思いを馳せて
- 2017.08.12 Saturday
- 09:40
1945年8月6日には広島市、同9日には長崎市に原子爆弾が投下された。広島では十余万人、長崎では7万人を超す死者が出て、残った被爆者たちは今もなお苦しんでいる。以降この両日を忘れてはならない過去として刻むため、広島・長崎それぞれについて原爆の日、または原爆忌、原爆記念日とした。歳時記などにとりあげられ、立秋の前後に当たることから、俳句では夏または秋の季語にもなっている。知恵蔵
北朝鮮がグアムに大陸間弾道ミサイルを飛ばすというニュースが騒がしいですが、72年前、日本に原爆が落とされたときのことを忘れてはならないと思います。
どんな理由があっても、罪のない市民に残酷な仕打ちをすることは、許されないです。
以前に書いた記事のことを思い出しました。
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原爆と「長崎の鐘」
昭和20(1945)年8月6日にアメリカは広島にウラン235型爆弾を、8月9日に長崎にプルトニウム239型爆弾をそれぞれ投下した。
同年末までに広島では約14万人が、長崎では約7万4000人が死亡した。
犠牲になったのは女性や子供、老人などの一般市民がほとんどで、明らかな無差別大量虐殺であった。
この時期、日本の敗戦は既に明らかだった。
日本には講和の意思があったにもかかわらず、アメリカは原爆を落としておびただしい数の一般市民を大虐殺した。
「広島、長崎原爆投下」より引用
69年前の8月6日、広島に原爆が投下され、9日には長崎にも投下され、多くの市民が犠牲になりました。広島で14万人、長崎で7万人。
この歌の元になったのが随筆「長崎の鐘」(1949年発行)です。
著者の永井 隆氏の夫婦愛が空前のベストセラーとなり、映画化され、歌も作られました。
NHKラジオ「心の時代」を聞いていたら、長崎恵の丘診療所の朝永先生がそのときの話をされていました。
永井 隆さんは、長崎医科大学に在学中、下宿先の娘さんと親しくなり、後に結婚しました。
名前は緑、代々隠れキリシタンの家柄で洗礼名はマリアでした。
卒業後、軍医として勤務してから、長崎医科大学教授となり、放射線治療の第一人者として研究・治療に専念していました。
毎日のレントゲン研究で被曝したため、原爆投下前に白血病を発病しました。
(余命3年と診断された)
1945年(昭和20年)8月9日、長崎市に原子爆弾が投下され、爆心地から700メートルの距離にある長崎医大の診察室にて被爆。
右側頭動脈切断という重傷を負うも、布を頭に巻くのみで救護活動にあたりました。
投下された爆弾が原子爆弾であると知ったのは、米軍が翌日に投下したビラを読んでからのことでした。
(永井)先生はまたサッと見られて、顔がもう真っ青になって、豆粒のような汗が滲み出て「あー、これ が原子爆弾であったか」先生も放射能の専門家ですからね。「アメリカが原子爆弾の研究をしているということは知っておった。しかしこんなに早くに使えるま でになってるとは、知らなかったー」とそれだけおっしゃった。
3日目にやっと帰宅したところ、台所跡から骨片だけの状態となった妻緑さんの遺骸を発見し、その骨片を拾い埋葬しました。
いつも身につけていたロザリオで、妻とわかったのでした。
数日後、子供と義母が疎開していた三山(市内西浦上)に救護本部を設置して被爆者の救護に当りました。
その後、原爆症、白血病などに苦しみながら研究・執筆を続け、1951年に43才で亡くなりました。
この間にも、ルルドの水の奇跡など、いろいろ不思議なことがあったそうです。
ウィキペディアを参考にしました。
リマ:私の生まれる前のことですが、なぜかこの歌を聞くと自然に涙腺がゆるんでしまいます。
日本中で大流行したので、母親が聞いていたのでしょうか。(;△;)
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長崎は、シーボルトが来日して西洋医学を教えた場所(1823〜28年)であり、日本初の西洋診療所(幕末)が開かれた所です。
また、シーボルトが卒業したドイツのヴュルツベルク大学は、後にレントゲン博士がX線を発見し、原子爆弾研究の始まりとなった所だそうです。
ナチスの台頭で多くの研究者がアメリカに亡命して、アメリカで開発されました。
ドイツ、原爆、長崎の因縁めいたつながりはまだ数多くあり、とても不思議な感じがします。
当時に思いを馳せると、
平和のありがたさをしみじみと感じます。
合掌
つづきです。
『長崎の鐘』の永井夫妻はソウルメイトでした。
http://rimaroom.jugem.jp/?eid=2255
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