山伏と修験道、福岡県求菩提山(くぼてさん)の例
- 2018.07.23 Monday
- 13:51
【山伏の装束】
誰でも山伏を知っていると思います。
白装束に杖をついてホラ貝を吹き、山の中を歩き回っているイメージです。
しかし、私たちは山伏の真の姿を知っているでしょうか。
アニメや昔話のイメージで、知っているつもりになっているのかもしれません。
・修験道とは
しゅげんどう
日本の山岳信仰,特定の山岳での修行により超自然的能力を習得し呪術などの宗教活動を行う山伏の宗教。
役小角(えんのおづぬ)を開祖とする。
山岳信仰と密教の呪験練行とが習合したものである。
行者は,山伏,修験者,客僧と称される。
霊場は,初め大和国の葛城山を中心としたが,出羽の羽黒山,月山,湯殿山,大和の金峯山,大峰,紀伊の熊野山,伊予の石槌山,摂津の箕面山,豊後の彦山,加賀の白山,信濃の戸隠山などが有名である。
1872年に修験道を廃して,天台,真言の2宗に分属させたが,第2次世界大戦後,「宗教法人法」の発布により一派をなすものが多い。
出典 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典
山伏は民話や昔話によく登場しましたが、明治初期に明治政府の法律により廃止されてしまいました。
明治5年の国民数は約3,500万人でした。
ある調査では、江戸末期の山伏は17万人といわれています。
これは多すぎるようですが、相当な数の山伏がいたようです。
参考資料:
明治5年の修験道廃止で17万人もいた山伏はどうなった
山伏について調べていると、
私が思っていた以上に、面白いことがわかってきました。
【求菩提山(くぼてさん)福岡県】
・修験道の山として有名だった求菩提山(くぼてさん)福岡県
求菩提山(くぼてさん)は、福岡県豊前市求菩提と築上郡築上町寒田の境界に位置する筑紫山地に属する標高782メートルの山である。
麓の豊前市のシンボル的な山であり、かつては英彦山、犬ヶ岳と共に修験道の山だった。
古くから修験道の霊山として修行が行われ、1870年頃の明治時代前期まで山伏信仰が行われていた。
山頂付近では修験道に関係する「求菩提五窟」と称される普賢窟・多聞窟・迦陵頻伽の彫られた岩洞窟など遺跡や遺物が存在しており、国宝や重要文化財に指定されたものもある。
こうした歴史的背景から2001年に日本の史跡にも指定され、さらに2012年には「求菩提の農村景観」として日本の重要文化的景観にも選定されている。
また、カラス天狗の伝説が伝えられている。
ウィキペディア
・求菩提のカラス天狗伝説
豊前の民話では、豊前市の求菩提山には山伏の姿をしたカラス天狗が住んでいたといわれています。
神通力を使うことができ、「火伏せの神」として人々から敬われていました。
火をしずめるとはすなわち水の神様であり、火事を消し止めるだけでなく、雨を降らすこともできたといいます。
豊前市を代表するキャラクター、カラス天狗のくぼてん、きょうこは市民にも人気です。
やはり、修験道と天狗は縁があるようですね。
【カラス天狗のパンフレット】
山伏の生活はどうだったのでしょうか?
彼らはどのようにして食物や必要な物を得ていたのでしょうか?
調べてみると以外に知らないことがたくさんありました。
山伏とは、少人数のグループで人里離れた山岳を巡り、厳しい修行をする孤独な人々だと思い込んでいました。
そんなイメージは吹っ飛んでしまいました。
・修験道の山、求菩提山(くぼてさん)
わが国の宗教は山岳信仰に始まると言われます。
その山岳信仰をベースに、東北アジアのシャーマニズム、中国の道教、そして密教が結びついて成立したのが「修験道」と呼ばれる神仏習合の宗教です。
信仰の山としての求菩提山の歴史は5〜6世紀にさかのぼるとされますが、12世紀初め頃(平安末期)に旧豊前国宇佐郡出身の僧、頼厳(らいげん)によって、ここに修験道がもたらされることになります。
それ以来、明治元年(1868)の神仏分離令まで、天台宗護国寺を中心に、求菩提山は九州を代表する一大修験道場となりました。
求菩提山は「一山五百坊」と言われ、天台宗護国寺を核に多くの山伏(修験者)が棲みついて厳しい修行に挑み、英彦山と共に北部九州修験道の中心を担いました。
一山五百坊!!
いったい何人くらい住んでいたのでしょうか?
【江戸末期の坊】
山伏の宿坊復元へ 求菩提山で豊前市 福岡
毎日新聞2018年1月12日
写真と広さから、5,6名くらいが住めそうですね。
500坊×5名=2,500名
大きさもいろいろあるでしょうから、推測して
数千名の山伏が求菩提山に住んで修行をしていたことになります。
【山伏女(妻)の生活道具】
しかも、妻がいたり、お茶を栽培したりしていたそうです。
すっかりイメージくずれちゃいました。
・修験と薬
近世の山伏は民間祈祷師であるばかりでなく、人々にとっては頼りになる民間療法の専門家でもありました。
つまり、病気を治すための加持祈祷を行うかたわら、薬草・薬石をそえることを忘れなかったのです。
山伏たちは、本草学に関する知識を持ち、山中で薬草を採取あるいは栽培して、さまざまな薬をつくりました。
つくった薬は年に一度の檀家廻の際に配って歩き、翌年檀家を訪ねた折にもしもその薬が呑まれていれば、代金を頂くといった具合でした。
「入れ薬」のはじまりです。求菩提山資料館
なんと、富山の薬売りの元祖は山伏だったようです。
日本中に修験道の山はたくさんあります。
どれもが福岡の求菩提山と同じとは思えません。
地域の違いも大きかったのでしょう。
山伏のコミュニティも奥が深いです。
そのうち、別の修験道の山を調べてみたいです。
つづきます。
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