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山伏と修験道、福岡県求菩提山(くぼてさん)の例

山伏4

【山伏の装束】


誰でも山伏を知っていると思います。
白装束に杖をついてホラ貝を吹き、山の中を歩き回っているイメージです。


しかし、私たちは山伏の真の姿を知っているでしょうか。
アニメや昔話のイメージで、知っているつもりになっているのかもしれません。


・修験道とは 


しゅげんどう
日本の山岳信仰,特定の山岳での修行により超自然的能力を習得し呪術などの宗教活動を行う山伏の宗教。


役小角(えんのおづぬ)を開祖とする。
山岳信仰と密教の呪験練行とが習合したものである。
行者は,山伏,修験者,客僧と称される。


霊場は,初め大和国の葛城山を中心としたが,出羽の羽黒山,月山,湯殿山,大和の金峯山,大峰,紀伊の熊野山,伊予の石槌山,摂津の箕面山,豊後の彦山,加賀の白山,信濃の戸隠山などが有名である。


 1872年に修験道を廃して,天台,真言の2宗に分属させたが,第2次世界大戦後,「宗教法人法」の発布により一派をなすものが多い。

出典 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典


山伏は民話や昔話によく登場しましたが、明治初期に明治政府の法律により廃止されてしまいました。


明治5年の国民数は約3,500万人でした。


ある調査では、江戸末期の山伏は17万人といわれています。
これは多すぎるようですが、相当な数の山伏がいたようです。


参考資料:
明治5年の修験道廃止で17万人もいた山伏はどうなった


山伏について調べていると、
私が思っていた以上に、面白いことがわかってきました。


山伏5

【求菩提山(くぼてさん)福岡県】


・修験道の山として有名だった求菩提山(くぼてさん)福岡県 


求菩提山(くぼてさん)は、福岡県豊前市求菩提と築上郡築上町寒田の境界に位置する筑紫山地に属する標高782メートルの山である。

麓の豊前市のシンボル的な山であり、かつては英彦山、犬ヶ岳と共に修験道の山だった。


古くから修験道の霊山として修行が行われ、1870年頃の明治時代前期まで山伏信仰が行われていた。

山頂付近では修験道に関係する「求菩提五窟」と称される普賢窟・多聞窟・迦陵頻伽の彫られた岩洞窟など遺跡や遺物が存在しており、国宝や重要文化財に指定されたものもある。

こうした歴史的背景から2001年に日本の史跡にも指定され、さらに2012年には「求菩提の農村景観」として日本の重要文化的景観にも選定されている。


また、カラス天狗の伝説が伝えられている。

ウィキペディア

 

・求菩提のカラス天狗伝説  


豊前の民話では、豊前市の求菩提山には山伏の姿をしたカラス天狗が住んでいたといわれています。

神通力を使うことができ、「火伏せの神」として人々から敬われていました。

火をしずめるとはすなわち水の神様であり、火事を消し止めるだけでなく、雨を降らすこともできたといいます。

豊前市を代表するキャラクター、カラス天狗のくぼてん、きょうこは市民にも人気です。

 

やはり、修験道と天狗は縁があるようですね。


山伏1

【カラス天狗のパンフレット】

 

山伏の生活はどうだったのでしょうか?
彼らはどのようにして食物や必要な物を得ていたのでしょうか?


調べてみると以外に知らないことがたくさんありました。


山伏とは、少人数のグループで人里離れた山岳を巡り、厳しい修行をする孤独な人々だと思い込んでいました。
そんなイメージは吹っ飛んでしまいました。


・修験道の山、求菩提山(くぼてさん)


わが国の宗教は山岳信仰に始まると言われます。

その山岳信仰をベースに、東北アジアのシャーマニズム、中国の道教、そして密教が結びついて成立したのが「修験道」と呼ばれる神仏習合の宗教です。

信仰の山としての求菩提山の歴史は5〜6世紀にさかのぼるとされますが、12世紀初め頃(平安末期)に旧豊前国宇佐郡出身の僧、頼厳(らいげん)によって、ここに修験道がもたらされることになります。

それ以来、明治元年(1868)の神仏分離令まで、天台宗護国寺を中心に、求菩提山は九州を代表する一大修験道場となりました。


求菩提山は「一山五百坊」と言われ、天台宗護国寺を核に多くの山伏(修験者)が棲みついて厳しい修行に挑み、英彦山と共に北部九州修験道の中心を担いました。


求菩提山資料館


一山五百坊!!
いったい何人くらい住んでいたのでしょうか?


山伏2

【江戸末期の坊】

山伏の宿坊復元へ 求菩提山で豊前市 福岡
毎日新聞2018年1月12日


写真と広さから、5,6名くらいが住めそうですね。
500坊×5名=2,500名
大きさもいろいろあるでしょうから、推測して
数千名の山伏が求菩提山に住んで修行をしていたことになります。


山伏3

【山伏女(妻)の生活道具】


しかも、妻がいたり、お茶を栽培したりしていたそうです。
すっかりイメージくずれちゃいました。


・修験と薬 


近世の山伏は民間祈祷師であるばかりでなく、人々にとっては頼りになる民間療法の専門家でもありました。

つまり、病気を治すための加持祈祷を行うかたわら、薬草・薬石をそえることを忘れなかったのです。

山伏たちは、本草学に関する知識を持ち、山中で薬草を採取あるいは栽培して、さまざまな薬をつくりました。

つくった薬は年に一度の檀家廻の際に配って歩き、翌年檀家を訪ねた折にもしもその薬が呑まれていれば、代金を頂くといった具合でした。

「入れ薬」のはじまりです。求菩提山資料館


なんと、富山の薬売りの元祖は山伏だったようです。


日本中に修験道の山はたくさんあります。
どれもが福岡の求菩提山と同じとは思えません。
地域の違いも大きかったのでしょう。


山伏のコミュニティも奥が深いです。


そのうち、別の修験道の山を調べてみたいです。

つづきます。

 

〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜

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2018.07.23 Monday 13:51 | comments(0) | - | 

神仏習合から神仏分離までの流れ

神仏習合

【今でも行われている神仏習合、石清水八幡宮での行事】

 

あまり聞き慣れない言葉ですが、神仏習合から神仏分離までは、日本の宗教史で大きな出来事だったのです。

 

しばやんさんのブログで、詳しく考察されていたので、ウィキペディアとともに参考にさせていただきました。


しばやんさんのブログ:

仏教伝来から神仏習合に至り、明治維新で神仏分離が行われた経緯を考える

日本には古来、神道(しんとう)別名
惟神(かんながら)の道がありました。


神道(しんとう)は、日本の宗教。


教典や具体的な教えはなく、開祖もおらず、神話、八百万の神、自然や自然現象などにもとづく多神教。自然と神とは一体として認識され、神と人間を結ぶ具体的作法が祭祀であり、その祭祀を行う場所が神社であり、聖域とされた。
 ウィキペディア


それに反して、仏教は大陸から伝わり、国教として朝廷の保護を受けて発展してきました。


・仏教伝来の時期は? 


6世紀半ばの欽明天皇期に百済から大和朝廷へ伝わったといわれていました。
それ以前から、渡来人が私的に仏教を信仰して伝えていたようです。


大和朝廷の豪族の中には原始神道の神事に携わっていた氏族も多く、物部氏・中臣氏などはその代表的な存在であり、新たに伝来した仏教の受容には否定的であったといわれています。


・朝廷の仏教優遇策 


鰐口

【鰐口(わにぐち)仏堂の正面軒先に吊り下げられた仏具の一種】


平安時代になると、朝廷はますます仏教を重んじるようになりました。


神社で経典を読むことを命じる勅書が何度も下されました。


「勅す、神道を護持するは、一乗の力に如かず、禍を転じ福を作(な)す。また修繕の功に憑る。宜しく五畿七道に僧、各一口を遣し、毎国内の名神社に、法華経一部を読ましむべし。…」西暦836年


神仏習合

【神社の境内の奥に五重塔がある例】

 

そのため、神社でも仏像仏具を備えるようになったのです。
神社のご神体に仏像を置く神社も現れるようになり、建物も寺院のような極彩色の伽藍や五重塔を建築する神社も増えていきました。


八幡、山王、愛宕、祇園、多賀、北野天満宮などの各神社は、神前に鈴はなく、鰐口(わにぐち)に鐘の緒の下げであったのになりました。

 

「社頭の構造も伽藍風となり、堂作りの社殿に極彩色を施し、丹塗りの楼門や、二重、三重、五重の塔のある神社もあって、純然たる仏閣の如くであったのが事実である。


神社の実権は、全く僧徒の占領に帰し、神主はその下風に立て、雑役に従事するのみ、何等の権力もなかったから、神人は憤慨に堪えられず、僧徒に対して怨恨を懐き、宿志を晴らさんとすれども、実力なければ空しく涙を呑み、窃(せつ)に時機の来らんことを、待っておった。」


「しかるに僧徒が勢威に任せて、漸次に神道の色彩を奪い、本地堂に仏像を安置しながら神体を仏像にし、社殿を仏堂に模造し、神殿に仏像の扁額を掲げ、鈴に代わるに鰐口を以てし、而して僧徒が法衣して神殿に読経してこれを神祭というに至っては、実に神仏混交、社寺混同して、本迹二門の真意も、却って破滅するに至ったのである」

 


・仏教僧侶の堕落 


僧侶の堕落

 

江戸幕府は仏教を優遇してきたが、そのことが多くの僧侶の堕落を招きました。
その証拠にかなり以前から仏教を厳しく批判する書物が多数出ています。


「江戸時代ほど僧侶攻撃論の栄えた時代はなく、まず儒家により、更に国学者により、存分の酷評が下されている。
『堂宇の多さと、出家の多きを見れば、仏法出来てより以来、今の此方のようなるはなし。仏法を以て見れば、破滅の時は来たれり。出家も少し心あるものは、今の僧は盗賊なりと言えり。』(大学或問*) 菊池寛


荻生徂徠はその浪費振りと搾取のさまを指弾している。
『今時、諸宗一同、袈裟衣、衣服のおごり甚(はなはだ)し。これによりて物入り多きゆえ、自然と金銀集むること巧みにして非法甚し。戒名のつけよう殊にみだりにて、上下の階級出来し、世間の費え多し。その他諸宗の規則も今は乱れ、多くは我が宗になき他宗のことをなし、錢取りのため執行ふたたび多し』(政談)


仏教を批判したのは思想家だけではありません。
会津藩の保科正之、水戸藩の徳川光圀及び徳川斉昭など名君と呼ばれた藩主も盛んに仏教を排撃したのです。


・神仏分離令 


仏教を擁護してきた江戸幕府が倒れると、明治新政府はかなり早い段階から仏教を叩こうと動きました。


明治政府は慶応四年(明治元年)三月十三日に神祇官再興を布告し、次いで三月十七日には神祇事務局より神社における僧職の復飾(俗人に戻ること)を命じ、さらに三月二十八日には『神仏分離令』を出しています。


これによると、「権現」とか「牛頭天王」など、神号を仏号で称えている神社はその由来書を提出すること、また仏像をもってご神体としている神社は今後改めること、さらに本地仏ととして仏像を神社に置いたり、鰐口や梵鐘、仏具などを社前に置いている場合は早々に取り除けと命じています。


・廃仏毀釈 


廃仏毀釈

【仏具や経典を焼き捨てているところ】


そしてこの『神仏分離令』が出た4日後の四月一日に日吉天王社に武装神官が進入し、仏具や教典などを焼き捨てています。


当時は、全国の大半の神社でご神体が仏像にされていて、境内には仏教的なものが数多く存在しました。
それらを「早々に取り除け」というのは、建物ならば、破壊するか、移転するか、社殿として使うしかなかったのでしょう。


仏像や仏具などは多くが焼かれたり、溶かされたり、棄てられることになりました。


他藩に先んじて幕末に廃仏毀釈を実施した薩摩藩では、梵鐘などを溶かして大量の「薩摩天保」と呼ばれる贋金を密鋳して軍資金を捻出しました。


「寺院廃毀の後、神社の神仏混淆してあるのを分離することが至極面倒であった。
各地巡回して、神社ごとに検査の上仏像仏具を取りよけたが、全く仏像を神体にしたるものがあった。
これらは新たに、神鏡を作って取り替えたが、霧島神社をはじめ、鹿児島神社なども仏像で、即ち千手観音であった。
三個国大小、四千余の神社を一々検査したのに、大隅国、々分郷のなげきの森という古歌にも見ゆるその神社の神体が古鏡であった。
神仏混合でなかったのは、ただこの一社だけであった。」


薩摩藩でこんな状態であったので、どこの藩でも大量の梵鐘や鰐口が集まることとなりました。
仏具のほとんどは鉄や銅などの金属だったのですね。


「京都四条の鉄橋の材料は、仏具類が破壊せられて用いられたとのことである。

鉄橋は明治六年に起工し、翌年三月に竣工し、同十六日に開通式が行われた。
総費額一万六千八百三十円で、祇園の遊郭で負担したとのことであるが、時の知事長谷信篤は、府下の諸寺院に命じ、仏具類の銅製の物を寄付せしめた。
古い由緒のある名器の熔炉に投ぜられたるものが少なくなかったということである。
当時廃仏毀釈の余勢が、なお盛んであったことがわかる。」

 

古い寺や神社の多い京都においても、明治初期に多くの文化財が失われました。

 

・まとめ   


千年間続いた神仏習合が終わり、明治から廃仏毀釈の嵐が日本中に吹き荒れました。
それにより、貴重な文化財の多くが壊され焼かれ、溶かされ、外国に売られました。


日本史の授業で廃仏毀釈のことを知った時は、なんとひどいことが起きたのだろうと思いましたが、千年の歴史の中での時代の流れだったのです。


日本人である私たちは、このようなことにあまりに無関心でありすぎたと思います。


山伏の話から脱線したようですが、この廃仏毀釈は山伏とも深い関係があるのです。


つづく

 

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2018.07.21 Saturday 09:49 | comments(0) | - | 

役小角とマジナイ師2

役行者

【役行者 木像】

 

元祖日本の仙人、役行者(えんのぎょうじゃ)のつづきです。

役小角とマジナイ師

(難しい漢字はカタカナにしました。)


 役(えん)のウバソクは加茂の役の公氏、すなわち今の高賀茂の朝臣(あそみ)の氏の出である。
大和の国の葛城上郡(かつらぎかみごおり)の茅原村(ちはらむら)に生まれた。


生まれつき博学で、1を聞いて10を悟るという風だった。

毎晩五色の雲に乗って空中に飛び、仙界に遊んで養生の気を吸っていた。


30才過ぎから岩窟に住み、クズ布を衣服にし、松葉、松実の類を食物として俗界の汚れを洗い落とし、クジャク明王呪法を修行して、奇異を行う術を体得することができた。
そして鬼神を自由自在に使役するようになった。

ある時、諸鬼神を集め、大和の国の金峰山と葛城山の間に橋をかけることを命じた。
鬼神たちは難工事に苦しんだ。
小角を恨んだ葛城山の一言主神(ひとことぬしのかみ)は時の天皇に、役小角が反乱を謀っていると密告した。

 

天皇は彼をとらえさせようとしたが、小角は各種の術を使うのでなかなか捕えられない。

一策を案じて小角の母をとらえた。

親子の情に惹かれて小角もついに捕らえられ、彼は伊豆島に流された。

この時も小角は海上を平然と歩行し、飛ぶように走った。
昼間はじっと伊豆島にいるけれども、夜になると富士山の頂上へ飛んでいって行を続けていた。
続けること3年、やがて山を作ってそこから昇天してしまった。

 

この役行者は雲に乗って仙界に遊び、深山に住んで松を食べ、鬼神を自由に使役し、速やかに飛行し、また水上を歩行し、ついには昇天するなど、中国の神仙と全く同一の性質を備えている。

別の説では、『続日本紀』によると、役小角が反乱を企てていると密告したのは、韓国広足(からくにのひろたり)となっている。

 

広足は当時の一流の呪禁師(じゅごんし)であった。

呪禁師は典薬寮に属し、医博士、針博士、あんま博士と並んで呪禁博士、呪禁生がいた。

 

その職務は邪悪の霊を除き、悪魔を払うにある。
つまり呪術の職で、いわゆるマジナイ師である。

マジナイで悪を禁圧することがその本業だったが、反面にはこれで人を陥れることもあった。

例えば、宮中の巫女たちが流罪に称せられた事件がある。

それによると、この巫女たちは天皇の髪を盗み出し、また佐保川にあったドクロを宮中に持ち込み、このふたつで天皇の死を祈ったという。

もともと髪や爪はその伸び方が目によく見えるので、ふたつとも人間の生命力が集中的に現れるシンボルと考えられた。

 

そこで、生きている人の髪を盗めば、その人の生命力のシンボルを手にしたことになる。


一方ドクロはいうまでもなく死者のシンボルである。

だからこのふたつを並べて、一方の生命力がドクロのシンボルに圧倒されることを望んだわけだった。

つまり死を祈ることになったのである。

こうした考え方は原始民族の思考形式にはごく一般にみられるが、日本の宮廷内部でも行われた事は面白い。
役小角を密告した韓国広足もまた、このようなマジナイをする力を持っていた人であった。
だから彼の密告は、おそらく役小角の呪術への嫉妬だったのだろう。

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

面白いですね。
O(≧▽≦)O

 

昔の日本人は呪いや不思議なことが大好きだったのです。

というかそれが当たり前だったのです。

 

現代のように非科学的だと迷信だとかそんな事は考えたこともありませんでした。

明治政府は近代国家を目指していて、迷信的な国だと思われたくないので様々な信仰や習慣を禁止したのです。

 

例えば、神仏分離もそうでした。

修験道も禁止されました。

 

私は、修験道に思い入れが強くて、江戸時代の修験道にも興味があります。

 

つづく

 

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2018.07.19 Thursday 19:22 | comments(0) | - | 

役小角とマジナイ師1

役行者

【役行者絵巻より】

 

今回はちょっと趣向を変えて『錬金術』の本から日本の神仙の話をご紹介したいと思います。

私は前世で天狗だったことがあり、若い頃は登山部に入って毎月山に登っていました。

山に惹かれる人の多くは、前世で山岳修行者だったようです。

 

 

役小角とマジナイ師


戦国時代の頃、日本に渡来してきた多くのキリスト教の宣教師たちが悪魔かと驚きいぶかったのは、日本の修験道であり、山伏たちであった。


ヨーロッパではキリスト教に対立する多くの異教や民間信仰はことごとく悪魔として追放されるか、または形を変えてキリスト教の儀礼の中に吸収されてしまっていた。


それと同じような恐るべき異神、神秘的な力を備えているものとして、彼らは山伏を見たのである。
多くの宣教師たちは、彼らの本国への書信の中で、山伏を悪魔と呼んでいる。


険しい大和の峰々をめぐって厳しい修行を続ける修験者たち、すなわち山伏について、一種の畏れと驚きを含めて、苦行する彼らの様子を伝えている。


弁慶

 

山伏と言えば『勧進帳』の弁慶の姿でお馴染みである。

今もその姿の人々は大和の大峰や出羽の三山に入って修行を続けている。


今日では仏教の一派とされており、その宗教儀礼は仏教風となっているが、根本は古代的な山岳信仰と考えられる。


仙という字はにんべんに山、つまり山の人である。事実中国の仙と言う字が生まれたのもその意味からであった。
山の神秘、そしてそこに住む人の神秘、それはまた中国道教の大切な要素でもあった。


日本の仙人説話の中にも、中国風の仙のスタイルがたくさん出てくる。するとこのことはまた、道教が日本に影響したひとつの例でもあるわけだ。

さて多くの日本の神仙説話のうち、最も有名なのは役小角(えんのおづぬ)別名役行者(えんのぎょうじゃ)である。

今も修験道の祖として仰がれている仙人だ。

 

彼について『日本霊異記』(にほんりょういき)は次のように伝えている。・・・・

 

続きます。

役小角とマジナイ師2
http://rimaroom.jugem.jp/?eid=2478

 

 

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2018.07.18 Wednesday 09:17 | comments(0) | - | 
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